中央区医師会の沿革

●近代医学発祥の地、銀座、築地明石町界隈

  • 1774年(安永3年)杉田玄白によって書いた新書の翻訳刊行により日本近代医学の幕が上がった。
    • 杉田玄白らがオランダ医書ターヘルアナトミアを翻訳したのは、築地鉄砲州の前野良沢の家である。それは豊前中津藩奥平大膳太夫の中屋敷内にあって、今日の築地明石町の中央保健所が建つ所にあった。
    • また、この地は1935年(昭和10年)、日本に保健館が最初に設置せられた所で、後に保健所へと発展した。
    • 右写真は明石町にある 『解体新書』 『慶応義塾発祥』の記念碑。
        
  • 1858年(安政5年)、福沢諭吉は築地明石町に福沢塾(蘭学塾)を開き、これが1863年(文久3年)の英語塾を経て後の慶応義塾大学となり、1917年(大正6年)、北里柴三郎を学部長に迎え慶應義塾医学科として発足した。私立総合大学としての医学部はこれを以って起源とする。
  • 1881年(明治14年)、高木兼寛が銀座鎗屋町(今の銀座4丁目)に成医会講習所を創設して医師を養成し、1887年(明治20年)に移転して慈恵医専、慈恵医大となった。いずれも私立医学専門学校、私立医科大学の第一号である。
  • 大正から昭和初期、駿河台、御茶ノ水付近は官途を退いた名医によって、順天堂、杏雲堂、浜田産婦人科、瀬川小児科等々の如く有名病院街をなし官学的だったのに対し、銀座築地には聖路加、林外科、本田耳鼻科、南胃腸科、福田小児科等々多くの病院が軒を並べ、下町的気風を持って庶民から多大の信頼を得ていた。

  • 築地には海軍省、後に海軍大学校があり、後年海軍軍医学校として昭和に至るまで存続し、これには市立病院(後に都立)が併設され、庶民の診療にも当たっていた。その跡地に1962年(昭和37年)に設立されたのが現在の国立がんセンターである。一方、1945年(昭和20年)の東京大空襲で大塚の施設を失った癌研究所はその翌年、木挽町(現銀座2丁目)の南胃腸病院跡に再興、国立がんセンター発足に当たっては多くの人材が移動し、その後の発展に貢献した。

●中央区医師会の生い立ち

  • 本会は1911年(明治44年)に京橋区医会として発足し、1916年(大正5年)に京橋区医師会として改組された。
    • 1874年(明治7年)の医師法公布により医師免許制が確立され、1906年(明治39年)に内務省令第33医師会規則が発布された。
    • 1919年(大正8年)に勅令第429号医師会令が発布され、翌年、東京府にも郡区医師会、東京府医師会が誕生し、現在のような統一された医師会形式が整った(医師は全員強制加入)。
  • 1923年(大正12年)9月の関東大震災直後、医師会を挙げての救護活動を展開、月島の救護所は月島簡易診療所として昭和9年から京橋区医師会に委譲されて経営。
  • 1939年(昭和14年)10月、紀元2600年記念事業として会員の寄附金での月島簡易診療所改築と医師会館併置を決定。
  • 1940年(昭和15年)に京橋区医師会館を竣工。地区医師会としては最初。しかし1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発、医師会館は憲兵隊の屯所となり、医師会の資料は散逸した。
  • 戦時色一色となった1942年(昭和17年)に国民医療法公布、勅令により医師会は改組することになり、従来の医師会は解散。京橋区医師会は東京府医師会の京橋区支部となり財産は全て東京府医師会に供出、会長、理事は支部長、幹事と改称された(1943年(昭和18年)7月の都制施行で東京府は東京都に)
  • 1945年(昭和20年)の終戦後、医師会の一部改正の勅令が公布、役員は公選制になった。月島の医師会館も返還され、医師会の事務所となった。

  • 1947年(昭和22年)11月28日、社団法人中央区医師会誕生。
    • 1945年(昭和20年)5月には一行政区一医師会という制度となり、戦後、京橋区が日本橋区と合併して中央区となった為、京橋支部も日本橋支部とともに一医師会設立の準備を進めた。GHQの指令で医師会も強制加入の財団法人から任意加入の社団法人に改組された。
  • 1950年(昭和25年)4月頃、母性保護医協会から優生保護法指定医になるには地区医師会長の推薦が必要との権限が与えられ、会員が増加(この頃、整備委員会の前身の審査会発足)。
  • 1952年(昭和27年)3月、中央区医師会と日本橋医師会に円満分離。
    • 理事会で総論賛成、各論反対が続出し、原因は行政組織が各区に残存(保健所2、税務署2、社保事務所2)している為と判明。話し合いの結果、医師会も個別対応が良いとなった。
  • 1954年(昭和29年)、準看護学校を開校、昭和36年に閉鎖(東京都医師会の中で開設も閉鎖も第1号)。
  • 1961年(昭和36年)5月、会館再建準備委員会結成
    • 1973年(昭和48年)9月、会館建設基礎調査委員会発足。1977年(昭和52年)新会館誕生。
 
  • 1948年(昭和23年)11月、中央区医師同志倶楽部創立
    • 昭和27年:中央区医師政治連盟と改称、昭和51年都医連の中央区支部と改称。
  • 1950年(昭和25年)3月、中央区医師会2の部から武見太郎日医副会長誕生。
  • 1957年(昭和32年)4月、武見太郎日医会長が誕生。
  • 1961年(昭和36年)2月、医師会、歯科医師会の全国一斉休診実施。同年7月、医療危機突破中央区医師大会、同年7月保険医総辞退回避。
  • 1981年(昭和56年)4月、武見太郎日医会長引退、同12月に逝去。
その後の歴史
  1. 鈴木肇先生と中央区医師会(05/2/3:若手の会資料)、
  2. 中央区医師会の活動(平成17年度以降)

医師会今昔物語(中央区医師会雑誌第2刊号33〜35頁)

休日応急診療所の生い立ちと現況(中央区医師会雑誌第2刊号36〜38頁)

○参考: